俺は長文を書くことができない。その原因は複数ある。まず時間をかけて取り組むことができないこと、2つ目につらくなってくること。前者には心あたりがある。長時間同じことをするという訓練をしていないのだ。思い返すと学校でのテストや試験も定められた時間の2割ほどですべて解けていた。やっていないのだからできるわけもなく、長文を書くことや長い(長いといっても3分ほど)の曲を作ることができない。これに気づいた時すっきりした。先天的なもので全てやってきたので、先天的なものがないと思い込んでいたのだろう。ただ、この気付きを真として運用していくのは厳しいと思う。自分の思いつきにそれほど信頼性はないと評価しているので複数人からの助言などがないと不安。そもそも新しいものを取り入れるのが面倒という問題もある。そういった困難を乗り越えて導入したところでつらくなってくることは変わらないので、成果的に何も変わっていないという予想がある。非常に厳しい。
自分の能力に自信を持っていないはずなのに時間をかけて取り組む努力をしないのは、頭のどこかに全能感があるから、という考えが浮かんで自分がいやになってくる。精神が厳しい状態での自己分析は死にたみを増幅させるだけなので良くないとは思っているが、やはり自分のことは知りたい。自分の能力を見積もるのは難しい。精神の状態によって天と地ほどの差が生まれ、死にたくなったり余裕でゲームしたりする。どうにかしたいのでやっていこうと思った。行動はしない。精神が厳しい状態だと何もできないのだけれど、何もしていないと厳しくなってくるので抜け出すのが非常に難しい。やっている感を得るための何かを用意すると結構安定するんじゃないかと思っている。やっている感というより承認か。中身のないやっている感==承認と定義して分けてしまうというのも手だが、一般に使われている言葉に独自の定義をするのは可読性を下げるだけなのでやめよう。やっている感を得るためにはどんどん高度なことをしなくてはいけなくて、長期間継続してやっていくのは楽じゃない。よく考えると大体の悩んでいる事柄は生きていく前提で考えているから生まれているわけで、死ねばすべて解決するんだ。死んだら元も子もないから死なないけどなガハハ。生きるとは辛く厳しいことだなあ。飽きたから書くのやめるわ。そんじゃーね。